たまねぎの憂鬱 ー聖地サンティアゴへの巡礼路2016ー

なんちゃってエリートOLが仕事と恋愛をほったらかして800KMスペイン・サンティアゴ巡礼の旅!

旅立つ理由

巡礼の道は天国へ通ず

 

中世のキリスト教徒にとって、「巡礼」とはいったいどういう行為だったのだろうか。

 

純粋な信仰心や懺悔の気持ちによるものから、病気平癒のような現実利益、さらに物件遊山を目的にしたものまで、巡礼の動機は実にさまざまである。

 

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自発的なものとも限らず、裁判によって巡礼が刑罰として科された例もかなりあったという。例えば殺人犯ならば、犯行に用いた武器を溶解させて作った鎖や首かせをつけ、時には裸足で巡礼路へ向かう。

 

鎖や首かせが摩擦で擦り減り、汗や脂で腐って自然に外れた時、あやまちが償われたとみなされていたのである。

 

こうした多種多様な巡礼すべてに共通していたのは巡礼地までの道程が、辛く苦しいということだろう。

 

つまり、殉教者や苦行者の苦しみをいささかなりとも追体験する意味があったに違いない。

 

殉教者たちは必ず天国へ入ることができたし、中世人は「天国へ行かねばならない」という脅迫観念を確実に持っていた。

 

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教会側も、大巡礼を行う者は必ず天国へ行けると約束し、推奨し、大宣伝していた。

 

足にマメを作りつつ歩き続けることは、天国への道を前進することに他ならなかったのだ。

 

巡礼には民間信仰てきな要素もあった。聖職者など一部を除けば、大部分の人が文盲であった中世、「超越的な神の力」を伝える為に、まず壁画や彫刻が使われた。

 

だが、そうした絵解き以上の効果で、中世人を信仰へと駆り立てたもの、それは「脅威」だとか「神秘」などの現象である。

 

いつの時代、どこの世界にもこれこれの泉の水に触れれば病が癒えるといった類の信仰がある。

 

中世キリスト教世界では特に「聖遺物崇拝」が盛んだった。

 

聖人の遺骨、毛髪、歯、衣服、殉教の際の道具・・・とにかく聖人の徳が染み込んでいる全てのものに様々な効果があると信じられていたのである。

 

人々はこれら聖遺物に対して祈り、手で触れ、時には断片を掻き取ってお守りにしたり、煎じて飲みさえした。

 

サンティアゴ巡礼の場合にも、巡礼者たちはただ一路コンポステラを目指したわけではない。途中途中の教会や修道院が所有する聖遺物をも拝みつつ、彼らは進んだのである。

 

もちろんサンティアゴ・デ・コンポステラの大聖堂にも聖遺物がある。

 

15世紀のある巡礼者の手記によれば、巡礼者たちは木の椅子を登って大祭壇上の聖ヤコブ像に近づき抱擁し(これは今でもやっている)、その冠を取って自分の頭へのせたという。

 

聖ヤコブの巡礼杖なる聖遺物もあったし、何より大祭壇下の地下室には彼の遺骨が鎮まっている。もっともこの聖遺物は、盗難を警戒して拝観は許されてはいなかったのだが。

 

さて・・・

 

では、私はなぜ歩くのか。

 

まずネガティブサイド。

 

確かに、サンティアゴ巡礼を知った経緯で自分が歩くような宿命を感じたけれどそれだけで築いたキャリアや人間関係に40日以上もの空白をつくれない。

 

普通がつまらないからって旅に出るのもただの現実逃避にすぎない。現実逃避を否定するわけではないが、私にはリスクが大きいと感じる。

 

自分探しって言ってられるのは大学生まででしょう。そして私は決して迷走しているわけではない。

 

夏にスペイン歩くとか、日焼けやばくない?

 

そもそも、六本木から西麻布まですら歩かないのに1日20kmとか無理じゃない?

 

スペインまで行って巡礼だけするわけでもないし、毎日アルベルゲ(巡礼者専用宿)はおそらく体力的に無理だし準備費用も考えて私流でサクッと計算すると65万〜75万かかる。このお金でできること、買えるもの・・・

 

って私のこの思考がめちゃくちゃ普通だしつまんない奴だと気づく。

 

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ポジティブサイド

 

仕事はクビにはならない。(なんとか)

 

私がいなくても時期的になんとかなる。(いい意味で)

 

スペイン語勉強できる。

 

ヨーロッパに住んでたくせにスペイン本土に行ったことがない。(離島しかない)

 

中世が生きる道を歩きたい。

 

映画The Wayが大好き。

 

夢がない私には、夢を追うようで胸がときめく。

 

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なんてね!!こんなものは付録である。

 

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今年はローマ教皇が定めた特別聖年なので、免罪の門が開いている。私にはこれまでの人生でたったひとつだけ懺悔したいことがある。そしてそれに紐付いて、赦せない人がいる。

 

私はキリスト教徒ではないけど、神がいるなら赦されたい。そしてその赦しと引き換えに、ある人のことも赦したい。

 

こんなものは心持ちひとつ。そんなことはわかっている。でも、赦してくれていると信じれる何かが欲しいのかもしれない。

 

その相手はこの世にもういない。

 

だから、私の思い込みだろうと何でもいい、神に赦しを請うて赦されるのなら、地の果てまで行こうではないかと思ったのだ。

 

本当の本当に赦されるなら、キャリアも捨てれる。お金だっていらない。

 

なぜ神を信仰するのだろうと疑問に思う日本人は多い。実に非科学的だし、宗教は文明の一環だ。

 

神は死んだ?そもそも神などいないのかもしれない。

 

でも、神がいる世界の方が美しいのだ。絶対的に。

 

もう一度だけでも会えるのなら、どんな悪魔とだって取引する。

 

あなたがこの世で生きることができるなら、私は自分の命をさしだせると本気で思っている。

 

でも会えることはないし、私が相手の口から「赦してるよ」と言ってもらえる日は永遠にこない。

 

信じるしか生きて行く術がないのだから、信じたいのだ。

 

免罪の門をくぐるだけで、すべての罪が浄化される?

 

800km歩いて贖罪になる?

 

そんなはずはない。

 

それでも、もしそう信じることができたなら私はどんなに幸せだろう。

 

過去にこの道を歩いて救われた人は多くいた。

 

飛行機に乗って、キャッシュカードを持って、最新の装備を持って、携帯があってWi-FiGPSがあるこんな便利な現代でも、

 

例えば神がいなくったって、

 

純真無垢に信じて歩いた人と同じ気持ちで同じ道を歩みたい。

 

彼らの百分の1の苦労で、百分の1の罪が消えるなら、歩こう。

 

私には神は存在すると言い切る勇気はない。

 

神の存在の真偽は誰にもわからない。けれど、救われた人々の魂は真実だ。

 

すべての宗教は多くの人を殺した以上に、たくさんの人を救ったのだ。救っているのだ。

 

ならば、なにも根拠がなくったって、救われると信じて歩きたいと思ったのだ。

 

そして赦されたと信じて生きていきたい。赦してあげたい。

 

だから私は周りにゆとりと言われても、親に止められても、何日かかってでも必ず歩ききる。

 

そしてその道を歩いている間は、あなたのことを毎日考えて、神に祈ろう。

 

ちょっとだけセンチメンタルな、たまねぎでした。

 

 

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