巡礼には一度死んで生まれ変わるという意味がある。
巡礼には一度死んで生まれ変わるという意味が宗教的にあるんだって。
なんだかとっても深い。
私も一度死んで人生リフレッシュしたいってくらい、東京での生活に飽き飽きしている。
悲しいのは、特定の不満がないこと。
不満があれば、それを払拭するために努力するし、欲しいものがあれば手に入れるために全力で挑むけれど、それもない。(基本的に努力と根性でどうにもならないことなんてないと思っている。)
負け惜しみなのかな。妥協してるのかな。
多分、「普通に」幸せなんだろうと思う。
でも、何かが足りない。
刺激?夢?「普通」ってどうしてこんなにもつまらないのだろうか。
結婚して子供とかできたら、こんな考えも変わるのかな?なーんて考えてみたり。
The world is not ENOUGH!!!!!!!!!
◉巡礼路を辿る伝統
さて、ブログのテーマに話を戻そう。
12世紀には年間50万人を数えた巡礼者だったが、14〜15世紀の英仏百年戦争、16世紀の宗教改革による聖遺物崇拝の否定と、2つの大打撃を被ってその数は激減した。
百年戦争?宗教改革ってなんだっけ?って人はこんな映画を見てみるといいと思う。わりと史実に忠実に描かれているし、何より頭に歴史の流れが入ってきやすい。
現代の巡礼路はといえばそのほとんどが旧道と化し、自動車道路に寸断されてしまっていて、全行程をカバーする鉄道やバスはない。
だが、そのいでたちや動機こそ中世とは違うが、聖ヤコブを慕ってサンティアゴ巡礼路を辿る伝統はまだまだ生きている。
第一はキリストの生涯を辿り、墓を拝むエルサレム。
第二が聖ペトロの墓のあるカトリック教会の大本山ローマ(バチカン)。
第三がイベリア半島の北西端、ヨーロッパの「地の果て」ともいうべき場所にあるサンティアゴ・デ・コンポステラである。
イスラム教との手中にあったエルサレムへの旅は、庶民にとってはあまりに遠く、危険が多い。
ローマは、アルプス越えの難所があるにしても、遥かな聖地に辿り着いたという感動にはいささか欠ける。
それゆえに、フランス、ドイツ、イタリア、イギリス、北欧といったヨーロッパ中の人々は第三の地サンティアゴ・デ・コンポステラを目指して歩いた。
何がそんなにも多くの人を惹きつけたのか。
そこに、聖ヤコブの墓があったからである。
前回の記事にも書いたことに重複するが、聖ヤコブのスペイン語読みが、「サンティアゴ」であり、伝説によれば聖ヤコブはキリストの昇天後スペインを伝道して歩き、そこで獲得した9人の弟子のうち7人を連れてユダヤに戻ったが、エルサレムで殉教したのだ。
その亡骸は海へと運ばれ、密かに舟に乗せられる。神の思し召しに委ねられ、風まかせに航海を続け、着いたところがイベリア半島の北西、ガリシア地方の海岸であったという。
時は流れて9世紀はじめ、ある隠修者の前に天使が現れ長らく忘れられていた聖ヤコブの墓の在処を告げる。
超自然の光を放つ星に導かれて、大理石の棺が”発見”された。
キリストの死後、十二使徒が各地に伝道布教したのは事実だが、実は聖ヤコブがスペインにいった確証はない。
彼のスペイン伝道に関して最初に記述するのは5〜6世紀の文献であり、歴史的事実とは程遠いと思われる。
見つかった墓もおそらく古代ローマ時代の金持ちの墓だろう。(勿論、諸説あり。私にはこの説が一番納得のいくものだった。真実は明かされたところで世界には公表されないだろう。)
しかし、その場所にはすぐさま教会が建てられ改築に改築を重ねて、ついには現在見るような大聖堂となる。
サンティアゴ・デ・コンポステラへの巡礼路は、ヨーロッパ中に網の目のように広がっていた。
ベルギーや北ドイツからの巡礼者たちは北フランスのパリとヴェスレーで、スイスやイタリアからの巡礼者たちは、南フランスのル・ピュイとアルルで集合する。
この4つの町から発した巡礼路は、途中でさらに多くの巡礼路と合流しながらイバニェタ、ソンボルトの2つの峠でピレネー山脈を越えてスペインに入り、プエン・ラ・レイナの町で一つになる。
ピレネーからコンポステラまで、イベリア半島の北辺を西へ西へと続くこの道の一帯は、ナバーラ王国やアラゴン王国など、キリスト教徒の国々がなんとか支配を保っている地域であった。
今に残る、コンポステラへの最古の巡礼記録は951年の物だが、巡礼がとりわけ盛んになるのは11世紀以後のことだった。
その頃、ローマ教皇やクリュニー修道会が西の十字軍、すなわちスペインのレコンキスタ(国土回復戦争)を呼びかけ、大勢の貴族や騎士たちが、また聖職者たちが、ピレネーを超えた。
(左がイスラム勢力。右が十字軍。)
貴族、騎士たちは異教徒との戦いに参加し、聖職者たちは修道院や教会を続々と建立する。彼らの用を満たすため、商人、職人、旅籠屋、両替商などもやってきた。
巡礼者の増加もこうした流れの一環であったのだ。
そんな歴史に思いを馳せて、私も彼らと同じ道を歩きたい。
次回は中世のキリスト教徒にとって「巡礼」とはなんだったのかを考え、私にとっての「巡礼」がなんであるか・なんの為に歩くのかを書いていきたい。
実はもう着々と準備は進んでいて、バックパックもシューズもほぼ一通り揃えてあるので、準備装備に関しても今度まとめて紹介していこうと思う。
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たまねぎでした。